丹波通信1292 池田輝政:姫路城

かなり前に私の御先祖様の『助兵衛』さんが1637年に西宮で新田開発をして庄屋だった…と言う事を書きました。そうなんです、江戸時代初期まで武庫川と仁川の合流点はしばしば氾濫して荒地だったそう…それを助兵衛さんが開墾して新田にしたそうです。ウチは本家ですから、助兵衛さんの御位牌もありましたし、過去帳にも助兵衛さんの記載があります。勿論、西宮にお墓もあり、常に複数の他人の方がお花をお供えして下さっています。

そこまでは亡き母から聞いていました。それ以前の事は全く解りませんでした。だから、ウチは生粋の百姓だと思ってました。私が5歳まで父は専業農家でした。幼少の頃は私もよく畑に行ってました。畑の横を流れる小川は綺麗で、フナやモロコ、メダカ、ドジョウがいて毎日網とバケツを持って捕ってました。いくら捕ってもナンボでもわいて来ましたね。

それが、先日ある文献が目に止まりました。なんとその偉い助兵衛さんのお父さんは、なんと池田輝政の寺社奉行だった!と…。池田輝政、解りますか?姫路城を造った戦国武将です。池田輝政の父は池田恒興。清洲会議に出席した四人の織田家の重臣の一人です。あとの三人は柴田勝家、丹羽長秀、羽柴秀吉です。滝川一益は参加に間に合わなかった。戦国時代を語らせたら長くなるので終りますね(笑)

江戸幕府には奉行が三つありました。寺社奉行・勘定奉行・町奉行…です。その中でも最も権威があるのが寺社奉行です。当時の寺社はかなりの権威がありましたが、それを監視する立場にある寺社奉行ですから…。せやったんか~。生粋の百姓やと思っていたけど~かなり権威のある武士やったんか~。ほんなら、そのもっと前は~?どうやったら調べられるんやろ~?それで、小学生の時から歴史…特に戦国時代が好きやったんやな~(^o^)/多分、助兵衛さんは次男以下でしょうね。分家ですね…。長男は寺社奉行継いでるのかなぁ。寺社奉行は老中にも度々なる程の立場やった…と言う事も今回知りました。

丹波通信

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