丹波通信1200 助兵衛
私のご先祖様に『助兵衛』と言う方がいました。ウチの仏壇には長く『中村家先祖代々』と『中嶋家先祖代々』のお位牌がありました。『助兵衛』さんは中村家のご先祖です。西宮の武庫川と仁川が合流している所は江戸時代初期までは大雨が降ると氾濫を繰り返していました。それを1637年に助兵衛さんが初めて完全な堤を完成させて開墾して新田を開発しました。江戸時代の新田開発の走りですね。
その新田の名前は助兵衛さんの名前が付いて『助兵衛新田』となりました。その後、名前は『上新田』に変わり現在の下大市から堤町、上之町辺りの庄屋だったのです。これは、私が小学3年生の時の社会の副読本『西宮のくらし』にも明記されていましたし、図書館にも資料がありますし、今なら簡単にネットで『助兵衛新田』と検索したら出てきます。
しかし、いつの頃かは知りませんが、今は亡き母が生前に言っていたのが…「中村家が絶えてしまって中嶋家から養子に行ったご先祖がいた」それで、我が家のお仏壇には『中村家』と『中嶋家』のお位牌があった訳なんですね。今は、私か妻か、家族全員でお彼岸とお盆には必ずお墓参りに行きます。しかし我々が行かなくても必ず先に綺麗な新しいお花がお供えされています。これも、生前に母が「村の人がウチのお墓参りをしてくれてる…」との事でした。
だからなのか解りませんが、西宮の実家は水道代が一切掛かりませんでした。井戸水ではありません。ちゃんとした上水道です。水道代が無料で育った私は、大学の時に借りた桂のマンションでの水道代に驚きました。又、篠山は水道代がメチャクチャ高くって、1ヶ月15,000円もするので大変驚きました。と言う訳で父の代までウチは百姓です。百姓は私が保育園の時に辞めてしまいました。その後は借家を建てたりガレージにしたりして生活していましたが、父が全てをギャンブルで無くしてしまったんですよね~。中嶋家で大卒は私が初めてでしょうし、まして医師は初めてでしょうね。
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