丹波通信903 2000年頃幻の1
母は厳しい人でした。私が15歳のとき急逝し、思えばもう23年もたちます。私は独っ子なのでかなりかわいがられて育ちましたが、怒られるときは“ビシッ”と叱られました。そのあたり私の子供達への接し方はよく似ています。叱られると必ず真っ暗な納屋(倉庫)に入れられ耕耘機にロープで縛られました。そしてよく叩かれました。
しかし、「勉強をしろ」とは一度も言われた事がありません。4歳の時には、たし算・ひき算数ができ、ひらがな・カタカナは書けました。小学校4年生の時に、独学で6年生迄の算数を済ませて先生に怒られた事がありました。6年生の頃はAM2時迄勉強していたので、近所の人は自分の子供に「ヒロちゃんみたいになり。」と言われていました。
それが3年後、パンチパーマになろうとは・・・。
高校生で金髪にした時は、もう父しかいませんでした。父は私の頭を見ても別に何も言いません。訝(い)ぶかし気に私が「父ちゃん、俺がこんな頭にしても何も思わんか?」(当時金髪は大変珍らしかった) 父「オマエがしたいんやったらしゃーないやん。」 私は何故かしら気抜けしてしまいその後数日で元の頭に戻しました。
現在、私は朝と夕に必ず仏壇に挨拶します。子供達は私が人から頂き物をすると「仏さんにお供えする。」と言ってお供えをしてくれます。私も父も祖父も祖母も数奇な人生(今は違いますが)を送ってきました。今でこそ平凡な人生やと思えますが、20歳頃迄はいかに平凡で暮らす事が難しいか、よく悩んだものです。当社常務曰く、「オマエのどこが平凡や。」しかし、この程度の生活は私にとって本当に平凡です。
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